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失恋。それは誰もが経験しうることである。しかし学生時代のはかない恋も、年を取るたびに早くなる時間のなかで、やがて忘れ去られてしまう、と今の私なら言える。まずこれからこの話を読むあなたたちに一言伝えさせてほしい。心の傷は、どれだけの時間がたっても、消えきることはないのだ。 ――春。冬の気配は消え去って、その温かさがしっかりと現れ始めたころ、昼のうららかなリビングで、小学校に入学してすぐの息子の|碧斗《あおと》が一冊の卒業アルバムを持ってきた。どうやら、私のものであった。当の碧斗は妻に似てか、すごく活発な子で、この卒業アルバムも私の書斎をひっくり返してきたに違いないのである。 どうやら高校の卒業アルバムらしきそれは一度も開かれていないかのように新しさを湛えていた。それもそのはず、大学の準備に手間取ってしまい、ろくに見ていなかったのだから。 俺はそれを手に取って1ページずつめくる。高校時代のままの顔が、そのまま現れる。――確か、三年D組だったはずだ。自分のクラスのページを開けると、ノートを破った一片が挟まってあった。 「なんだ、これ」 手に取る前にその紙切れは、何かの拍子にふらふらと浮き上がって、そばで見ていた碧斗と俺の間ぐらいの位置で、深緑のカーペットにふんわりと腰を落ち着けた。あ、と言って碧斗が拾い上げたそれを見ると確かに俺の字で、|渡辺葵《わたなべあおい》と書いてあった。たしかにクラス名簿に名前はあるのだが、なぜ書いたのか、その理由がめっぽうわからない。それからしばらく考えてみたが、やはり覚えのないことに変わりはなかった。 「お父さん、なに、この本」 「ああ、お父さんの高校の時の卒業アルバムだよ」 「卒業アルバム?」 「うん、卒業したらクラスでとるんだ」 「僕もとるの?」 「もちろん。六年生になったらな」 その話を聞きつけて、妻がやってきた。妻に見せてすらいなかったので、興味津々に目を通している。一通り目を通した妻が、例の紙切れに気づいた。 「渡辺葵ってだれ?」 「さあ。自分で書いたくせに誰だかわかんないんだ」 妻はその紙切れと卒業アルバムをしばらく交互に睨めつけて言った。 「……高校の時好きだったひとじゃない?」 「まさか……」 「好きな人の字とか家族の字とか、丁寧に書く癖あるでしょ」 「ないよ、そんな癖」 「まあ、自覚がないにしろ、ほかの字と比べて明らかに雰囲気が違うもん。たとえば、ほら、付き合ってすぐの時に暮れたネックレスの包装紙に書いてあった字がそう。いっつも字が汚いのに、丁寧な字だなあと思ってた。ただ丁寧なだけじゃなくて、雰囲気そもそもが違うの。きっとこの子は、当時|特《・》|別《・》|な《・》|気《・》|持《・》|ち《・》|が《・》|あ《・》|っ《・》|た《・》|子《・》|な《・》|ん《・》|じ《・》|ゃ《・》|な《・》|い《・》|?《・》」 「うーん、そうかなあ」僕は若干納得できずにいた。 「ゆっくり考えてみたらいいよ」妻はそう言った。 夕方の慌ただしさも収まり、寝る前にやはり思い出そうとしていると、もう少しで思い出せそうな気がしてきたのだ。ただそれだけで、そこから一切不明瞭である。少し強めの風が吹いて、窓の揺れる音が小さく響く。ふと、頭の中に誰かの――おそらく女性の――笑い声が交錯する。その軽やかな、どこかはにかみを含めたその笑い声の持ち主を探す。その像が浮かび上がると、僕ははっとした。その女性こそ、渡辺葵であった。高校時代に|特《・》|別《・》|な《・》|気《・》|持《・》|ち《・》|が《・》|あ《・》|っ《・》|た《・》|ひと《・・》であった。しかし、彼女を思い出すたびに、俺は胸が張り裂けそうな気持になるのだ。俺は寝返りを打って、異様な広さの天井を仰いだ。 眩しいぐらいの天井の白さが、彼女の像をさらに引き立ててくれた。真っ黒のスクリーンには、輪郭のまだあやふやな彼女はまだ早い。 彼女のかすかな声を脳裏で聞き続けると、思い出したのは、とある教室の一角だった。放課後か、いや、まだ寒さのきんと響く、春の朝の教室であった。二年に上がってすぐの春だ――。花粉症でくしゃみが止まらないのをずっと君がからかってきたときのこと。さっきまで全然思い出せなかったのが全くのウソのように、鮮明に浮かぶ。 「……そういえばさ、兄弟とか、いるの?」くしゃみの波が去って、君が訊いてきた。僕は少しぎこちなく、弟の存在を伝えた。 「え、末っ子かと思った!」君の鮮やか瞳がこちらを向く。詰まりつまりの会話。初々しくて、少し恥ずかしくて、なんだか笑える。 ――――夢。気が付くと、お父さんの俺がいた。夢?確かに夢であった。ただ、夢で起きたことは、ほんとうのことである。渡辺葵というひととの、記憶の一片である。碧斗も起きてきたらしいあらゆるひとが新しい一日の営みを始めた今、私はまた、脳裏に強く残った彼女の続きを探したくて、パソコンのワープロソフトを起動した。 これは、俺の高校時代の話です。つらい話です。記憶違いで間違いがあるかもしれません。 ……こう始めたはいいが、どう続けたらいいかわからなかった。でも誰かが忘れてはならぬ、と言っている気がして、俺は思うままに打ち始めた。ようやく太陽の温かさが伝わってきた。 はじめは、俺にしてはめづらしく、一目惚れから恋がはじまった。記憶がとぎれとぎれであるため、思い出したシーンを時系列順に並べても、少し不自然に感じるかもしれない。月曜の朝は、断り切れずに半ば押し付けられる形で任された係の仕事で、中にはに出て花壇に水をやっていた。水をやる、というより、水をまき散らしていた。任された、いやな仕事を誰にも見られていないのに楽しくやろうなんて言う器用な気持ちが起こるような人間ではなかったのである。 上呂へと蛇口をひねる。取っ手を握る左手の重み、それに伴う苦しみが比例して大きくなる。袖にしずくが散る。まだ青いヒマワリが少しだけ上を向いていた気がした。そう、そこで例のひとが隣に現れた。初めて姿を見たわけではなかった。ただ、初めて僕は、この胸の高ぶりを認識したのであった。恋。 俺が水を注ぎ終わると、次は蛇口の前に彼女が陣取った。蛇口からの水の音がただ流れ続ける。 どうやら彼女も当番で、水をやりに来たらしい。幸いなことに花壇が隣だったので、水をそよそよと上呂で流している彼女に俺は少しの気まずささえ感じながらも、やっとの思いで彼女に話しかけた。 「……して、美化委員に、なったんですか?」 「ん?」唇に意識を集中させ、もう一度。 「どうして美化委員に、なったの?」何気ない問いに、葵のまなざしが向く。 「んー、ざっくり言うと癒されるから、かな」葵は、はにかみながらこう答えた。ただ、誰しもそうであるように、恋とは、緊迫と高揚の紙一重である。つまり俺は、会話の続きを考えていなかったのだ。俺はたじろいだ。思ったより花壇の黒色が鈍いことになぜか今気が付いた。そうして、また顔を上げ、 「じゃあ、何の花が好き?」――うまく会話が続くことを祈るしかなかった。 「ん、コスモスとかかな」 「俺も!コスモス」拙い、せいいっぱいの同意。 「癒されるよねえ」そう答える葵は、ぼうっとしながら、低木の花壇のほうへ顔を向けていた。 それから時間が来たのでそれぞれの教室に戻った。 授業中も、俺は集中できてなかった。先ほどの高揚感は色あせぬままだった。俺は|恋《・》|が《・》|叶《・》|う《・》|か《・》|叶《・》|わ《・》|な《・》|い《・》|か《・》ということは考えず、まだ名前のわからない女のひとに、ただひたすらに思いをはせていた。気分屋の春の天気が、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
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